先日、微信のモーメンツで中文系の教授が「AIは良い文章を書けない。いわゆる『人工知能による創作』はせいぜい文字のパズルで、血も肉もなく、魂もない」と投稿しているのを見た。コメント欄は大騒ぎになり、「教授は頑固すぎる」と言う人もいれば、「AIはどうせダメになる」と考える人もいた。私はもともと首を突っ込むつもりはなかったが、よく考えてみると、これは恰好のネタではないか。手元にはちょうど「AIライティングアシスタント」があり、普段は仕事の週報やイベントのコピーを書くのに使っているが、今日はそれでこの話題に応じてみようと思った。
私は壮大なテーマは選ばず、散文を一篇書いてみた。題は『巷の入り口のワンタン』。子供の頃、家の向かいの古い通りで、冬の夕方、街灯が薄暗く、ワンタンを売るおじいさんが鍋の蓋を開けると、白い湯気が一気に顔に立ち込め、豚脂とネギの香りが混ざり合った。私は覚えている細部をすべてAIに打ち込んだ。青石板の隙間の湿った泥、おじいさんの手のタコ、茶碗の縁の欠けた部分、スープの表面に浮かぶ海苔と干しエビ。AIはすぐに原稿を返してきた。正直なところ、最初に目を通したとき、文章は滑らかで、情景もあり、「その熱いスープで目頭が熱くなった」というような抒情的な表現まで作り出していた。私は眉をひそめた。なるほど、なかなかやるじゃないか。
しかし、読み進めるうちに違和感が募ってきた。AIは「巷の風は歳月のささやきを運ぶ」と書き、「ワンタンは時の中で最も優しい注釈だ」と書く。美しいけれど、頭に浮かぶのは国語の教科書にある「模範作文」の匂いだ。ワンタンを美しく描くことはできても、おじいさんがお金を受け取るときに指が硬貨で白くなっている様子や、私が道路の縁石にしゃがんで茶碗を待っているときに、隣の犬に吠えられて転びそうになった間抜けな姿は書けない。「熱いスープで目頭が熱くなった」と書くけれど、その熱さの中に祖母への想いが隠れていることには触れない。あのワンタンは、祖母が亡くなった後、初めて一人で食べに行ったものだった。
私はAIの原稿のスクリーンショットを教授に送り、「ご覧ください。これはAIが書いたものです。良い文章だと思いますか?」と添えた。彼はすぐに返事をくれた。「文字は整っているし、技法も熟達しているが、記憶に残るものはない。良い文章というのは、ページを閉じた後も、もう一度ある一文を読み返したくなり、しばらくぼんやりしてしまうものだ。この文章で、君はぼんやりできるか?」私は画面を見つめながら、彼の言う通りだと思った。AIは文法を模倣し、イメージを積み重ね、「温かさ」「懐かしさ」といった感情のボタンを推測することはできても、なぜ人が冬の夜に突然泣きたくなるのか、あのワンタンがその子供にとって、祖母を失った後、初めて誰かが熱いものを差し出してくれたことの意味を持つのかを理解できない。
もちろん、AIを全面的に否定しているわけではない。あの日、私はAIに結末を直してもらった。すると「後にその通りは取り壊されたが、あの熱気はまだ残っている」という一版を返してきた。なかなか点睛の妙があった。しかし、文章全体の骨格は、私自身が噛み締めて作り出したものだ。私が飲み込んだり、笑ったり、こっそり涙を拭ったりした瞬間は、AIには永遠に書けない。AIは賢い見習いのようなもので、墨をすり、紙を広げ、筆を整える手伝いはできるが、筆を下ろすときのあの震えは、自分自身でなければならない。
その後、私はこの経験を文章にして公開した。教授は下で「いいね」を押し、「君のこの一篇は、AIには書けない」とコメントした。私は「そうですね。でも、AIがワンタンを運んでくれました」と返した。この出来事は私に長い間考えさせた。AIは仕事を奪うために来たのではなく、むしろ一緒に話し合い、骨組みを組み立てるのを助けてくれる道具のようなものだ。しかし、本当の味は、自分で鍋に具材を入れて作らなければならない。あのワンタンのように、スープのベースはAIが調合したが、干しエビと海苔は、私が自分の手で振りかけたのだ。